脳卒中入院 diary

脳卒中で入院していたときに思ったことなどを書いてみました

脳卒中になっちゃった 9

 脳卒中で入院してもう五ヶ月が過ぎようとしていた。病院の裏庭に桜が植えられているのだが、見事な満開だった。

 手足のリハビリは良い意味でも悪い意味でも安定していた。成果がどんどん現れる訳ではないがほんのすこしずつゆっくりと進んでいる。入院した最初のころ、早い時期に回復できるかもしれないなどと思ったのは本当に甘っかたね。はっきりした進歩が見えなくても、毎日かかさず動かすことがとても大切らしい。動かさないと関節が固まってしまい、すこしでも動かすと激痛が走るようになるそうだ。退院しても毎日動かさないとダメらしい。

 足のリハビリには転んでしまったときの起き方の練習や、つかまって階段の上り下りなど退院した後に備えた実践的な動きがくわえられた。手の方は簡単な料理のしかたや、左手だけで爪切りをする方法を教えてもらった。まな板や爪切りは障害者専用に開発されたものが使われる。いままでは見たこともない道具だが、よく工夫してあるものだなぁと感心する。退院してから、いろいろな身障者グッズのお世話になっている。これがなければもっといろんな人のお世話にならないと生活できないと思う。便利なのはいいが値段が高いのは大きな欠点だ。

 この頃に限らないが本当にたくさんの方にお見舞いに来ていただいた。小中高の同級生。大学の同級生には県外からも来ていただいた。仕事関係やスポーツ系の仲間達、音楽系の仲間達など多くの人に励まされて本当に助かった。差し入れやお見舞いもいっぱいいただいた。この地域では、お見舞いをいただいたら、退院したあとに快気祝いとして半額を目安にお返しをすることが風習なのは知っていた。自由にならない体では直接返しに行くのも大変だし住所のわからない人もいるし、どうすれば良いのか悩んでいた。そうゆうことに詳しい年配の方がお見舞いに来た際に相談してみたら、私のように障害が残ったり退院したあとも治療がつづく人はぜんぜん快気していないのだからそんなことは考えなくて良い、と言われたのでお言葉に甘えることにした。ひとりで悩まず人に相談するものだね。

 見舞いに来た方からの差し入れでセンスの良いスイーツなどをいただいた時、看護師さんにお裾分けすると、すごくよろこばれてこっちも嬉しかった。別に私のセンスが良いのではなくてお見舞いにきてくれたひとのセンスがいいんだけどね。

 じょじょにいろんな準備がすすめられ退院が近づいてくることが実感できた。嬉しい反面、本当に退院していきなりひとり暮らしをするのは大丈夫なのかという不安もあった。その不安を取り除く様に実践的なリハビリをしてくれるのだろう。この病院でのリハビリもラストスパートだね。 

 

筆者 50歳代 男 バツイチ ひとり暮らし

脳卒中になっちゃった 7

 脳出血でたおれてからもう三ヶ月が経とうとしていた。担当してくれているスタッフとの定期的なミーティングで、じっくりと時間をかけてリハビリをするプランが提示された。これまでの経過をみて考えられたプランだろう。すこしぐらい早く退院しても仕事の予定もないし、病院生活もそれなりに快適だと思えていたのでそのプランでいくことにした。入院できる限度の六ヶ月間をかけてリハビリするプランだ。

 体に障害が残ることについても、命が助かったのに全部元通りになるなんて贅沢なことを考えるなと神様がいっているんだと思えるようになってきた。それまでは神仏への信心などなかったがこの際、神仏も利用させていただく。

 足のリハビリの成果はゆっくりとではあるが確実に進んでいることを自分でも感じられた。膝から下に装具をつけて杖歩行をするのだが介助についてもらわなくてもリハビリの部屋を一周できるようになってきた。手の方は足よりさらに遅いが進歩はしていた。自分の腕の存在を感じられないような状態ではなくなった。調子が良い日は肘の曲げ伸ばしができた。

 右側の手と足で、熱い冷たいがわかるかどうかの検査もした。暑いお絞りと冷たいお絞りを当ててみるのだが全く違いは分からない。両方とも同じピリピリとした刺激を感じるだけ。これは、リハビリなどで改善するものではなく現在の医学ではあきらめるしかないんだって。脳の再生医療が実現すれば治るようになるそうだけれど。あきらめも肝心だ。

 自分にとっては一番苦痛だった頭と言葉のリハビリはこの頃から急速に成果が現れてきた。本当に不思議なものだね。あんなに覚えられなかったカードの絵も忘れなくなった。音読もゆっくりとであれば普通に読めるようになった。小学生レベルの算数はもう卒業だ。残り三ヶ月をかけてゆっくりリハビリを進めるというプランを立てたが、頭と言葉のリハビリは一ヶ月を残して目標を達成してしまった。残りの一ヶ月で左手で文字を書く練習と、パソコンのキーボードを左手で打つ練習をした。左手で文字を書くのはどうやら才能がないらしい。ものすごく下手な字でなかなか上達しない。考えてみれば右手でも字は下手だったのでこんなもんかという感じ。

 左手でパソコンのキーボードを打つ練習は退院してからの暮らしにとても役に立っている。

今の時代は本当にデジタルのおかげで便利になってるよね。手足に障害の残ったものにとっては健常者よりさらに恩恵が大きいと思う。まあ、最近では音声入力などが良くなってもっと便利になってきたのでキーボードを打つ必要もなくなるんだろうけど。

 だんだんと外には春の気配が見えてきた。入院していても、やはり春はウキウキしてくる。

 

 

筆者 50歳代 男 バツイチ ひとり暮らし

脳卒中になっちゃった 6

 脳出血でたおれてから二ヶ月がたった。KR病院に入院していた私はリハビリテーション病棟に移された。担当してくれるスタッフもすべて変わった。新鮮な気持ちでリハビリ再スタートという気持ちだった。担当の看護師さん、理学療法士さん、作業療法士さん、言語聴覚士さんの4人が1チームとなってリハビリを進めていく体制だ。主に理学療法士さんが足のリハビリを担当,

手のリハビリは作業療法士さん、言葉の担当を言語聴覚士さんが担当して、それぞれ1時間。合計3時間のリハビリとなる。曜日などには関係なく休みはまったくなし。私の状態に合わせて、目標が設定された。足の方は装具をつけ杖をついて歩けるようになるのが目標。ほとんど動かせなかった右手は、すこしでも自分の意思で肩と肘を動かせるようにという目標。頭と言葉のほうは、ちゃんと話せるようにという比較的高い目標が決められた。その他に自主トレで左手で箸を使う練習などが宿題にされた。

 体を動かすのが好きな私にとって、手足のリハビリはベットにじっとしているよりいい。リハビリの時間が楽しみだった。運動が苦痛な人は多いらしく人それぞれだね。問題は頭と言語のリハビリだった。内容としては、文章を音読したり、小学生レベルの算数。絵の描かれたカードを3枚見たあとカードを伏せ、なんの絵が書いてあったか記憶して言うものなどだった。音読は多少引っかかるがまあまあ。小学生レベルの算数は問題なく進んだ。足し算、引き算、掛け算はなんなくクリア。割り算の筆算で、余りのある割り算の問題はやりかたを忘れていたが、これは病気のせいではなく本当に忘れているのだと思えた。カードに描かれた絵を記憶する問題になると、これがまったくできない。たったいま見たカードの絵を一瞬で忘れてしまう。不自然で、明らかに脳出血のせいだと思われる忘れ方だった。どうしてこんな簡単なことが出来ないんだというストレスがどんどん溜まってゆく。手や足が思うようにならないストレスとは違ったイライラするような嫌な感じのストレスだった。朝一番からこれをやると気持ちが下がってしまうので、なるべく午後にしてもらうことにして根気よくつづけた。脳の病気って自分の思わぬところに症状が出るんだね。

 このチームの人たちは退院するまで変わらなかった。みんな若い人たちだったが私とは相性が良かった。若い友達が一度に四人できたような気分。入院している間、他の誰よりも長い時間いっしょに居る人たちが相性のあう人たちだったのは本当に良かった。

 

 

筆者 50歳代 男 バツイチ ひとり暮らし

脳卒中になっちゃった 5

 転院したKR病院でも検査と点滴による治療、そして軽いリハビリがおこなわれた。検査が終わって病室にもどるときに廊下で幼なじみに会った。偶然、同じ時期同じ病院に入院していた。小学校の時は毎日一緒に遊んでいた仲良しだった。病院内に話し相手ができてとても助かったのだが・・。

 倒れてから一ヶ月がすぎたこの頃が、実は精神的に一番辛い時期だった。それは、そのころ担当してくれていた作業療法士さんの言葉から始まった。今後のリハビリのプログラムを話してくれていた時だった。右手は元どうりには戻りませんから、左手で箸をもったり、着替えなどができるようになる訓練もすこしずつ入れていきましょうと言われた。うすうすは分かってていたが利き腕の右手は一生不自由だとあらためて言われたのは想像以上にショックだった。泣きたい気分だった。

 同じ頃、務めていた会社を退社することも正式に決まった。長く休んで申し訳ないと思ったし、退院してもリハビリはつづくということだったので、すぐには仕事ができないということもあってこちらから退社を申し出ていた。

 身障者になってしまうし仕事はなくなる。これから先どうやって生きていけばいいんだろうと何度も考えてしまう。いま考えてもどうしようもないのだから考えるのをやめようと思うのだがやっぱりだめだ。特に夜が辛かった。考えてもどうしようもないことがぐるぐるリピートして眠れない。病気を苦にして自殺をする人ってこういう感じなんだろうなと思った。実際にそうゆう患者もいるらしく、病室の窓は飛び降りられないように最大20センチ位しか開かないようになっていた。私の場合は病気を苦にする人の気持ちがわかると思っただけで、自分が死にたいとまでは思わなかったけどね。どちらかというと楽天的な性格なのだが、それにしても辛い時期だった。

 すこし精神的に楽になったのは、幼なじみの病室に行き話をした時だった。いやーっ、まいったな、右手は元にはもどらないんだってさ、と強がって軽い感じで言った。言葉に出して言ってみたらスーッとショックが和らいだような気がしたことをおぼえている。 

 それでも、自分の体に障害が残るということを実感としてわかり、ちゃんと受け止められるにはもっと時間が必要だった。このころは今考えても辛い時期だったが、解決してくれたのはやはり時間しかなかったんだね。

 外はまだまだ寒く、ひらひらと雪の降る季節だった。

 

 

筆者 50歳代 男 バツイチ ひとり暮らし

脳卒中になっちゃった 4

 年が明けお正月もすぎた。私が脳出血で倒れてからは二週間がたち、集中治療室から一般の病室に移された。この頃の私の症状は、右腕はあいかわらず腕の存在すら解らない。自由の利く左手で右手を持ってみると、だらんとして、どうにでもなる感じ。おもしろがって腕をぶらぶらさせて遊んでいたら、そんなことをしたら脱臼をするので絶対やめてくださいと看護師さんに怒られた。リハビリ室にいくと三角巾で腕を吊ってる人をよく見るが、感覚のない腕を不注意にあつかい脱臼してしまう人が多いらしい。脱臼をやっちゃうとリハビリの予定が大きく狂ってしまうそうだ。右足はちょっとだけ動かせるようになってきた。右足をギブスのような感じで固めて歩くのがこの頃のリハビリの中心。言葉はあいかわらずたどたどしいが、記憶が変だという症状は最初よりはだいぶなくなってきた。まだ、ものの名前出てこないことはある。

 そしてこの頃、私の面倒を見てくれていた親戚が呼ばれて県立病院の方から話があった。来週中には転院してくださいということだった。県立病院では、病状が急性の時期がすぎたらなるべく早くベットを明け次の患者を受け入れられる体制をつくるためということだった。転院先の病院の候補がいくつか準備されていてその中から選んでもよいし、自分たちでで探してもよいということだった。準備されていた病院の候補の中に、私の母が何度か入院したことがあってよく知っているKR病院が含まれていたのでそこに決めた。

 転院の日は、ばたばたと荷物がまとめられ、自動車にのせられた。私の命を助けてくれた県立病院に感謝の気持ちと、集中治療室にいた元気な看護師さんは良い娘だったなぁなどと不謹慎なことを思っているうちに車は発車。やく三週間ぶりにみる外の景色はとても新鮮だった。

 車で25分ほどのところにあるKR病院につくと、病室に案内された。いろいろと説明があったあと、車椅子がもってこられた。その車椅子は、この病院にいるうちはあなたの専用ですのでサイズが合うかどうか座ってみてくださいといわれた。サイズはちょうどよかった。ためしに左手だけでタイヤを動かしてみると、その場でくるっと回るだけ。前には進めない。車椅子をもってきた理学療法士さんに、やっぱり片手では進めないんですね、と言ったら左足で地面を蹴るのと同時に左手でタイヤを動かすと前に進めますよと教えてくれた。ほんとだ、まっすぐ前に進める。ベットから車椅子にはまだ自力では移れないが、車椅子に乗ってしまえば思ったところに行けることがすごく嬉しかった。

 

 

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脳卒中になっちゃった 3

 脳出血から1日が経った朝、(病名を脳出血と書いたり、タイトルでは脳卒中と書いたりしているが正式な病名は脳出血脳出血脳梗塞をあわせて脳卒中というのは俗称なんだって。これも後から聞いて知った)看護師さんに起こされた。自分の名前と生年月日言えますかと聞かれ、非常にたどたどしい口調だけどどなんとか言えた。今日の日付言えますか、と聞かれこれもなんとか言えた。この日から3日間はMRIやそのほかの検査をなんどもやって、点滴による薬の治療をうけた。その後は1日中点滴による治療。とくに痛いとか苦しいとかはないのだが、ベッドの上で自分では身動きができず、もちろん寝返りもできず、点滴をしているのは結構辛かった。唯一の娯楽はiphoneでイヤホンを使って音楽を聴くことだった。これはこれから長くつづく入院生活で一番の楽しみだった。

 入院して一週間、年末に差し掛かった頃に理学療法士さんがやってきて、今日からリハビリを始めますよといわれた。まだ、自分では寝返りも出来ないのにリハビリをするって早いなぁ、と思った。動かない右足を特別なサポーターでギブスのように固め、支えられて5歩くらい歩いては休む。また、5歩くらい歩いては休むというものだったと記憶している。これも後から聞いて分かったのだが、どれだけ早くリハビリを始められるかが障害の残る程度に大きく影響するそうだ。一週間で始められた私はたぶん良いほうだと思う。早くリハビリを始められたのはもう一つ理由があった。最初にみてくれた先生が手術をしない方針で進めてくれたこと。私の出血量だと手術する選択肢も十分にあったらしい。のちに転院してからみてもらう病院のリハビリの先生が私の脳のMRIの画像を見て、これを手術なしで治療したのはすごいなぁと驚いていた。私のような救急のケースでは自分で病院を選ぶことも出来ず、救命のための切羽詰まった場面では治療方針なども完全におまかせ状態だ。ここで手術しない方針を選んだ先生にも恵まれていた。手術していたら、リハビリを始めるのはずっとあとになっていて、障害の残りかたもひどくなっていた可能性が高かったらしい。これも運なんだね。

 大晦日の頃。病院も少し人がすくなくなり静かだった。リハビリをしていた私は大きな勘違いをしはじめる。こんなに早くリハビリを始められたなら、すぐ元どおり歩けるようになるかもしれないと思ってしまった。私はこの時までに人並みに病気をしたが、治ればもとの体にもどるのがあたりまえだった。頭では障害が残ることもあると分かっていたが、まだ全然実感がなかった。

 ものすごくあまいことを考えながら県立病院の普段よりほんのちょっと豪華な大晦日の食事をたべていた。

  

 

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脳卒中になっちゃった 2

 私はギリギリのところで命が助かり、救急車で県立病院に運ばれていた。そこの処置室で意識がもどった。そのときは助かってよかったという気持ちも、不安や恐れもなかったような気がする。いろいろな検査や治療がつぎつぎとなされていくが、なすがままだった。なにかボーっと他人事をながめているような気分だった。一連の処置がおわって集中治療室のようなところで寝かされた。もう夕方になっていると思うが窓がないのでわからない。時間感覚はなくなっていたようだ。

 そこに親戚がやってきた。これはあとから聞いたのだが、その親戚はマンションを借りる保証人になってもらっていたので、電話番号がわかり緊急連絡をうけたとのこと。医者に病状の説明を受けてから私のところにきたらしい。私は今回の件で分かったのだが、医者の説明というのは悪い可能性のほうを言うものなんだね。楽観的なほうの可能性をいって、そうならないと訴えられたりするからなのかなぁ。この最初の説明でも、重症の脳出血で命はとりとめたが車椅子で一生をすごすか、寝たきりになることもあるので覚悟はしておいたほうがいいと言われたらしい。さすがにいきなりそれを私に言うのはかわいそうだと思ったらしく、この日はは私に言わなかった。私がそれを聞くのはだいぶ日にちが経ってからだった。親戚は結構ショックをうけていたらしいがそれをかくして、助かってよかったとしか言わなかった。聞かされていない私は相変わらずボーっとしていた。

 そうしているうちに親戚も帰り、夜を迎えた。私は自分の体がどうなってしまっているのかベットの上でいろいろためしてみた。体の左半分は正常なことがわかった。自由になる。右腕は動かすどころか腕そのものがなくなってしまったような感じだ。存在すらわからない。次は右足。これもまったく自分の意思ではピクリとも動かせない。でも右腕とちがい右足の存在はわかる。言葉のほうだが、口の右側が歯の治療で麻酔をされた時のような感じだった。それよりまずいと思ったのは記憶がおかしくなっている。自分の名前はなんとかわかるが、住所や日付などがでてこない。ものの名前がぜんぜん出てこない。自分の脳は、そうとう大変なことになっているような気がしたが、いつのまにか眠りに落ちたらしい。こうして、脳卒中になっちゃった初日、12月23日はすぎていった。

 

 

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